夢から目覚める(はじめに)

まずはじめに、生活の中で考える機会を見つけよう。「これは何か?」「これはなぜか?」そう考えても、答えはそう簡単に分からないだろう。一つの答えは、また新たな問いを引き出してくるからである。
しかし、例えそうであったとしても、まず第一にしなければならないことは、やはり問いかけることである。それも自分がこれまで慣れ親しんできた従来の方法による問いかけではなく、まったく新しい地平に立った無心の問いかけでなくてはならない。従来の考え方はどこか間違った点があったことが分かるかもしれない。
新しい形の問いかけは、自分の内部を深く考えるところから始まる。私たちがこれまでに営々と積み上げた個人的な信念や価値観に基づく問いかけは、世界を認識する上で何の意味も持たなかったのではないだろうか。こうした反省に基づき、私たちは今こそ新しく問うことにしよう。
完全に沈黙し、個人的な価値観を離れたところからなされた問いかけは、私たちを無の世界へ、透明の世界へと導いていく。無であってしかも全てのもので溢れ、透明の光の中にもあらゆる色彩が輝き渡る。そうした世界への扉が開かれるとき、私という存在は一変し、世界の時間は停止する。それはサナギから蝶への苦しみに満ちた脱皮である。
しかもそのサナギから蝶へのメタモルフォシスは、これを読んでいるあなたの遠い未来に行われる儀式なのではなく、今、この時点における秘めやかな変化。そう、私たちのメタモルフォシスに「始まり」はない。始まりに気がつくまえに、もうすでに始まっているのである。

1. 不思議あれこれ
1) 疑問の洪水
世の中には不思議なことが沢山ある。日頃何気なく見過ごすことでも、改まって考えてみれば、あれも不思議、これも不思議。そして、その中でも一番不思議なのは、一見最も当たり前のようなこと、最も単純なことではないだろうか。
世の中で一番わからないのは、実はこの最も単純なことなのではないか。例えば自分の存在。私たちは今ここに存在していて、それはわかり切ったことであるが、それでは存在しているとはどういうことなのか、なぜ今ここにいるのか。
そもそも「私」とは一体何なのかなどということを深く追求していくと、考えれば考える程わからなくなってくるものだ。
また、私たちも自分自身が一つの生命体であるが、周囲にも沢山の種類の生命体が存在していて、自分たちのやり方で生きている。植物は生産者として太陽からのエネルギーを栄養分に変え、動物は消費者としてそれを食べて大地一杯に活動する。その場合、植物は植物、動物は動物であって、決してその役割が入れ替わったりはしない。
その他にも、生命ではない石とかの物質がある。私たちは、これら物質、動物などに取り囲まれて生活しており、それらが存在するのはあたりまえで当然のことと思っているが、この点についてよく考えてみるとわからないことだらけなのではないだろうか。
同じ動物でもどうしてこんなにたくさんの種類があるのか。人間や動植物のように生命があるものと、物質のようにないものとは何が基準になって分かれているのか。などと、ちょっと周囲の世界を見回しただけで数限りない謎が広がっていく。
それから、周囲に対して向けていた目を今度は空に向かってみよう。陽は昇り陽は沈み、空は晴れ渡って輝き、雲がたれこめて雨が降る。夜ともなれば満天の星がきらめく。地球を越え、太陽を越え、銀河を越えて広がる宇宙が私たちの心に語りかけてくる。
過ぎ行く一日、巡りくる季節の中で、天空を駆けめぐる星座を仰ぎつつ遥か遠い空の向こうに思いをはせる。また数々の疑問が浮かび上がってくる。星は目に見える光の速度からすると、昔の姿しか見えはしないが、今は一体どうなっているのか?宇宙には果てがあるのか?あるとしたらその果ては一体どうなっているのか?この宇宙のほかにも別の宇宙が存在しているのか?
宇宙には秩序があるのか?ここでもどんどん疑問は広がっていく。
また、外の世界ばかりでなく内側の世界にも不思議なことが多い。つまり私たちの体、感情、知性などの働きやその結びつきなど、人間という小宇宙を形づくっているもの全てが、不思議に満ちている。
体と心はどのような関係にあるのだろうか?どちらが主体となっているのだろうか?感情や知性は全て意識的なものなのだろうか?どうして幸せな時とそうでない時とがあるのだろうか?
どうやって私たちは記憶したり忘れたりするのだろうか?どうして同じ人間なのに人によってタイプがちがうのだろうか?自分と他人とはどのように結びついているのだろうか?そして自分と宇宙とは?
こんな風にして疑問は果てしなく続いて行き、決して尽きることはない。これら全ては素朴な疑問である。そしてあまりに根本的で単純で素朴すぎるものだから、正面から取りあげるのはかえってもどかしいともいえる。いろんな意見がとびかうことだろう。
世界という膨大な謎を解くための第一歩はまず疑問を持つこと、不思議だと感じること、先入感をとり除いてただ問うこと。

2) 物質のこと
まずはじめに物質のことを取り上げてみよう。私たちは色々な物質に取り巻かれて生活している。これらの物質は、実際目に見えるので確かにそこにあると感じられるし、疑わしい場合には実際に手で触れて存在を確かめてみることもできる。
ところが、この目に見える物質とは果たして究極的には何なのだろうかと考えると、これが実にわからなくなってしまうのだ。物質について考えていくと、それが目で見え五感で感じるものとはまるっきり違ったものであるのが段々わかってくるからである。
中学生ぐらいで教わる理科でも、「物質、例えばつくえなどは硬くて一つにまとまったものとしてそこにありますが、実はこれを構成しているものを分割していくと分子というものになるのです。分子は原子からできていて、原子は中心に原子核があり、その外側を電子という小さい粒子が回っています。さあ、このボーアの模型を見てみましょう。これが原子、この中に陽子と中性子があって、陽子はプラスの電気を持ち中性子は電気的には中性、そして外を回っている電子はマイナスの電気を持っています。このように、つくえは実際はこうした細かい原子が集まってできたものであって、その原子はじっとしているのではなく絶えず運動状態にあるのです。私たちの目にはじっとしているようにみえるのです。」
この説明は現代素粒子論、昨今の量子力学の立場からいえば不完全で、かえって原子の誤ったイメージを植えつけてしまうようなものであるが、教科書などでは今でもこのように説明しているようです。
これを初めて聞いたときには、こんな堅いものが本当はとても小さな粒からできていて、その粒の中を電子というもっと小さな粒がいつでもぐるぐる回っている。それも、隙間だらけですか?しかし、理科の勉強ばかりしているわけではなくそのほかにも英語や数学もやらなければならないから、一箇所にたちどまってそれを深く考えている暇がない。
しかし、ここでちょっと考えてみただけでも新たな疑問がどっとわいてくる。それでは電気って何なの?どうしてプラスの電気とマイナスの電気があるの?どうして陽子と電子の数は物質によってちがうの?でも、大抵これらのひとつひとつについて、はっきりと疑問を解かないまま大人になってしまう。知識としてだけは覚えて、それで安心してしまう。そして、一度常識として覚えこんでしまえば、それはあたりまえのこと。ということは常識というのがまるっきり頼りにならないもの。
物理学者が研究しているような専門的なことを素人が知ろうとするのは大変なことになる。普通は途中であきらめてしまう。「やっぱり原子の構造などは、それ専門の物理学者にまかせておけばいいのだ。今の自分にはよくわからない」と。だから、たいていのものごとは、それについてはほとんど知らないか、知るとなると専門家となって何でも知っているか、この両極端に分かれる。
しかし、途中で疑問を投げ捨ててしまっては、新しいもの、面白いものは何もでてこない。私たちはたとえ知識を何も持たない素人であったとしても、専門家と同じようにいつでも勇敢に問うているべきである。

「物質の本来の姿、本当の正体は何か?」「物質は何によって生じ、何によって存在し続けるのか?」「物質はなぜ変化するのか?」これら一見解答不能と思われるような問いを突きつめていくとき、そこに何か新しい理解、新しいひらめきがもたらされはしないだろうか?

3) 認識すること
前節で取り上げたように、物質の構成も随分と不思議なものだが、それを私たちが感ずる過程もまた同じように不思議なものだ。物質を私たちが感じること、つまり感覚は、視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚という五つの感覚器官を通してなされる。この五感のうちで主体的なもの、視覚の問題を取り上げてみよう。物が目に見えるとは一体どういうことなのだろうか。
水や空気は透明で、少量ならば目に見えないが確かに存在している。ガラスも透明な物質で向こう側が透き通って見えるが、物を跳ね返したり光を反射したりするのでそこにあるのがわかる。私たちは、空気やガラスという物質が世の中にあるということを生まれたときから知っているから、不思議でも何でもないただの物にすぎないが、もし知らなかったとしたら、空気などそこに存在しているのかどうかわからないだろう。
空気を指さして「これが空気」といい「窒素と酸素と水素という気体の混合物なのだよ」と誰かに説明してもらっても、それこそ宙を見るばかりで、そんな物質が存在するとはおそらく信じられないにちがいない。何といってもそれは目に見えないのだから。
その他にも、私たちの目には見えないが確かに存在しているものはたくさんある。あまりに大きいもの、あまりに小さいもの、あまりに遠くにあるもの。目に見えないから無いのかというとそんなことはなく、ただ私たちの視覚機能に限界があるだけの話である。
光の波長、周波数によってもしかり。このように、私たちの視覚には限界がある。また、数々の機械を用いて視覚の範囲を広げてみても、やっぱり限界は取りはらわれない。
このことが他の感覚器官にとっても同じであるとすれば、五感というものは、外界を認識するためには部分的にしか役に立たないのだということになる。それでは、五感で認識できないものに対して、私たちはどのように臨めばよいのだろうか。目にも見えず耳にも聞こえないとすれば、どんな手段で物の有無を判断するというのだろうか。そして、五感を超えるものが実際に存在するとい うならば、それは一体どのような姿をしているのだろうか。
4) 生命のこと
物質とそれらを認識するということをめぐって、たくさんの不思議なことが出てきた。しかし、不思議はそれだけにとどまらない。おそらく、物質のことよりも生命のことのほうが、もっと不思議に感じられるのではないだろうか。
第一に、子供が生まれること。これなどは数ある不思議なことのうちでも超一級の不思議である。動物の胎児や卵はもちろんのこと、植物の種子や胞子がまた不思議である。胎児や種子は潜在的に「何かになろうとする力」をもっており、人間の子供は人間、ニワトリの卵はヒヨコに、ダイコンの種は間違いなくダイコンになるのであって、例外があればおもしろいが、これだけは絶対にそういうことはない。これもまた、あたりまえといえばあたりまえのことなのだが、不思議といえば不思議なことだ。
リンゴの種とミカンの種は同じくらいの大きさなのに、いざ植えてみるとまるっきり違ったものになる。人間の卵細胞や精子にしても、大きさにおいてはそれほど違いがみられないのに、できた子供の違いたるや、千差万別、十人十色、ひとりひとり完全に異なっている。この違いは一体どこからくるのだろうか。それから、生命あるものとないものとの境界がどこにあるのか?
5) 宇宙と自分のこと
さて、生命のことが話題に出たところで、生命体の一つとして、こうして活動している自分のことも取り上げてみよう。
自分という人間は、この世でただ一人だけであり、一個の独立した個体として生きている。つまり、肉体的には皮膚でもって外界と区切られており、それより内側が自分だ。しかし、この肉体を維持するためには、外側の世界と不断に接触を保っていかなければならない。
私たちは呼吸によって酸素を取り入れ、食べ物によって栄養分をとり水分も補給している。これらを体内に取り込まないことには、骨や筋肉や血液などの組織が構成されず生命体は維持されない。だから皮膚の内側は自分の領分とはいえ、この領域を形づくり維持している成分は、決して自分自身で作り出したものではない。
つまり、私たちの肉体を構成しているものは、全部自分と思っているが、借りものともいえる。それではどこから借りたのかというと、肉体が死ぬとバラバラに分解されて土に帰るように、大地から借りたものである。大地はなぜ私たちにそれらの構成物を貸してくれるのだろうか。
それから、私たちは様々な物を食べ、それらを燃焼させることによって活力を得ている。そして、この活力もまた、私たちが自分自身で作りだしたものではなく、植物や他の動物などが私たちに与えてくれたものだ。
このように、私たちが自分の生体を維持するためには、植物、動物、空気、水などたくさんのものに依存しなければならない。私たちは一時も他の存在物とかかわりを持たずには生きられない生物なのである。
また、このことは生理的なことがらについてだけでなく、精神的なことがらにも同様にあてはまる。子供は親の豊かな愛情がなければ育たないし、人間としてすばらしい素質を持って生まれてきても、それを引き出して教育してくれる社会がなくては、ただの動物と変わらなくなってしまう。
自分は親の愛情を受けて育ち、社会の教育を授かって一人前になるのであるが、そうして社会人として独立してからは、今度は自分が与える側となって新しい世代を育てていく。人間はいろいろな人や周囲の社会と相互に関連しつつ生きているのであって、一人だけ分離独立しては生きられないのである。
さて、そうなると、自分はこの社会において、一体どんな役割を果たしているのかという問題が出てくる。そして、この社会、この国家は、地球という一つの天体においてどんな立場にあるのか、またこの地球は太陽系、銀河系、全宇宙において、果たしてどんな役割を持っているのか、という問題もある。そこまで問いを進めると、この自分は一体全宇宙にとってどんな意味を持っているのだろうか。
意味があるのか、それとも無いのか。宇宙と自分の関連はあるのか無いのか。あるとすればどのようなことなのだろうか。などなど、宇宙的スケールの疑問がわいてくるだろう。そして、このことは、いちばんはじめに掲げた疑問、「私たちが存在しているということはどういうことなのか。なぜ、今、ここにいるのか?そもそも『私』とは一体何なのか。」という問いに立ち戻っていく。
2. 判断停止と純粋な観察
1) 様々な解釈 ―主観的判断者―
このように宇宙を問い、自分を問い、全てのことを問う。ふと立ち止まってまわりをぐるっと見渡せば、あらゆることが不思議だ。森羅万象、この世に存在するものは不思議といえば全て不思議なものであり、世界が神秘そのものに見えてくる。
それでは、私たちが何か不思議なものに対したとき、どんな態度で臨めば良いだろうか。不思議なことをたまたま見たり、聞いたりしたとき、私たちはどのように反応していたのだろうか。
例えば、テレビで念力の実験をやっていて、実験者が念じるとサイコロはいつも「1」の目を出す。あるいは、念じただけでテーブルが宙に浮く、写真のネガに字が焼き付けられる。そんな事態が起こったとしよう。そのときの反応は人によって様々である。
精神は物質をある程度動かすことができると信じている人は、この念力実験を当たり前のこととして受け取るかもしれない。しかし、物質は絶対に精神によっては左右されないと日頃から思っている人は、その実験がインチキであると考えるか、はじめからバカなことをやっているとして問題にしないか、そんなところだろう。
また、念力を信じる人の中にもいろいろな程度があって、「物質はいつでも精神の力に従うわけではなく、実験する人の能力とコンディション次第なのだ」という人もいれば、「いやあれは実験者の能力でそうなるのではなくて、実は霊が出てきて目にみえないところで物質を動かしているのだ」と思う人もいるだろう。
その他、念力実験というひとつの不思議なことに対して、どんな態度にもとれるし、どんな解釈もなされるにちがいない。
それぞれの人は、その人なりに自分の知識と判断力を用い、その人にとっては真に思えるような解釈を下すのである。しかしこうして下された解釈はあくまで個人的なものであるから、そこには共通の理解とか共通の到達点とかいうものはない。一人一人がそれぞれの解釈をする。
一つの現象に対し人の数だけ解釈が生まれるが、個人は一体何に基づいて判断をするのだろうか。ある現象を解釈する場合、その根拠となるものはどこにあるのだろうか。
自分の疑問を解いてはくれないだろう。そもそも理解しあうということ自体が不可能なのだから、誰かと一緒に謎を究明しようとしてもそれは謎の度合を増すだけに違いない。
3) 判断しないこと
ここで私たちがなしうる唯一のことは、一切の疑問をそのままにしておくことである。疑問を疑問としてだけとらえ、決してそれに対する答えを見い出そうとしないこと。つまりどんな疑問に対しても判断を停止し、あれこれ考えない。
パンの疑問が分かりやすい。パンがどうなっているか中に何が入っているかと思い考えたとします。そうだ、半分に分けてみよう。日本語は面白いもので、漢字では「解る」と「分かる」は違います。でも発音、発する言葉は同じです。一つのパンを二つにちぎって分かれた瞬間、「分かった(解った)」と思ってスッキリする。しかし小さくなってもまだパンはパンです。そうか、もう少し分けてみよう、分かった。でもその作業はいつまで続くんですか、それで何か解った?疑問は解けたの、スッキリしましたか?いつまでも分けられるけど、分けなくてもいいんじゃない?パンはそのままパンとしてでいいかもしれない。そのままで。そうだ、分けなくていいんだ。
パンから急に大きくなるが、世界は一つのはじめから与えられた存在としてそこに横たわっている。即ち、世界をありのままに見るのである。
4) 世界をありのままに見る ―純粋な観察者―
人は観察者になる前、あらゆることを自己の価値観を通して見ていた。価値観とは何か。何かを見たときにAよりもBのほうにより価値があると判断する、その判断の根拠となるものである。人はあらゆるものの間に差異を見出す。
人間にとっては、あらゆるものは互いに異なっており、AとBとの間には歴然とした区別があるように見える。何を見るのにも相対的に比較して見るから、AよりBの方が優れていると思い、CよりDの方が小さいとか、EよりFの方が美しいとかいう判断が成り立つのである。
私たちは日常、見るもの聞くもの全てに差をつけ判断を下している。このイスはあのイスより大きい、ひろ子ちゃんより知世ちゃんの方が可愛い、この羊羹は前に食べたのより甘くない、バラは咲ききったのよりつぼみの方が美しい、等々、過去自分が接し潜在意識に蓄積してきたものを引き合いに出して、知らず知らずのうちに判断を下しているのである。
しかし、ここでそのように判断を下すことを一時停止してみることにする。そして自らの周囲を見回して、そこにあるものをあるがままに、そのままで見るのである。観察者になった以上はありのままに見なければならない。
さあ、周囲のものをそれ自体としてありのままに見てみよう。イス、テーブル、時計がある。何も考えずにみる。「このイスは木目があまりそろっていない」とか、「テーブルの上が汚れているから後でふかなくてはならない」とか、「今7時だからそろそろ夕食にしようか」とか、一切考えてはいけない。考えてしまったら最後。その対象物に自分自身から発した想念と連想とが次々と加えられてしまう。これは、日頃私たちがあるものを見たときに無意識のうちにやっていることである。
従って、観察する場合にまずしなければならないことは、その対象を見たときに沸き上がってくる思考を断固としてストップさせ、思考が自己の内部に浮かばないようにすることである。
次に、その対象を他の同類の対象と比較しないようにする。前に述べたような判断、例えば「このイスはあのイスより大きい」とか「この羊羹はあの羊羹より甘くない」とかいった個人的な判断を差し控えるようにする。つまり自分の好みや感覚でもってその対象を見ないようにするのである。自分の価値判断を対象に加えている間は純粋な観察者にはなれない。とにかくイスやテーブルがただそこに在る、この在ることだけを認識しなければならないのである。
花を見る。名もない雑草がそこに咲いている。名を知ろうとしたり、他の花と美醜を比較したりしない。自分の好みを花に投影したりせず、その花と向き合う、すると、花はただ咲いているだけだ。その咲いている姿だけをじっと見る。
蝿を見る、これは少々難しい。「どうして世の中にこんなものが存在していなければならないんだ。きたないし、うるさいし。」などと嫌がってはいけない。かといって、今まで知らなかった美しさを発見し、「柔らかな日差しを浴びてその羽が虹色に輝くとき、漆黒の小さきものの上に天使の息吹がかけられる。」などとうっとりするのもいけない。観察者は、一切の感受性、情緒、思考価値判断を離れ、蝿をじっと観察することに終始するのである。すると、蝿もまた、ただそこに存在するだけだ。
この世界には、広大な自然の上に様々な生物が生息し、またたくさんの物質が存在している。観察者は、その各々を純粋な目で見、対象そのものをそのままの姿で知ろうとする。そして、あらゆる事物に見とれる。
私たちはこのような観察者として、ある程度の成功を収めたとしてみよう。そうすると、観察者の意識は、以前とどのように違ってくるのだろうか。
5) 従来の個人的価値観の崩壊
私たちの目の前には、以前と同じように様々なものが置かれている。以前、観察者になる前は、自分の目の前にあるものに対してその都度好き嫌いを示し、評価と価値判断を下し、美醜、優劣を定めていた。
ところが、純粋な観察者はそのような判断を下さない。判断を下すことは止めたのだ。ここで、観察者の内部に一つの転換が起こる。世界と自己との関係が質的に変化する。何が起こったのだろうか。観察者が従来持っていた、個人的な価値観が崩壊したのだ。
すなわち、純粋な観察者にとって、「全ては同等の価値を有している」ように見えてくるのである。ものが皆同一に見える。形態は異なっているが、どれもこれも価値の上では同一だ。AよりもBの方がより価値があるというものなどなく、いずれのものも互いに等しい位置にある。美しいものもなければ美しくないものもない、好きなものもなければ嫌いなものもない。大きいものも小さいものも、強いものも弱いのも、堅いものも柔らかいものもない。そのもの自体としてみれば、すべては同等の価値をもっている。
このように見えるようになったのは何故なのだろうか。それは、もはや自己の内部に比較する基準がなくなってしまったからである。自己は観察者として「無」になっている。自己がそれまでに持っていた感覚、思考などは一時棚上げされており、その目を通して対象が色づけられるということがないのである。
観察者はついに、「そのもの自体としてみれば、全ては同等の価値を有している」ということを発見した。またこのことは、別の形で言い表すこともできる。すべてが同等の価値を持つということは、逆にいえば全てはとりわけ何の価値も持っていないということになる。全てに価値があるともいえるし、全然ないともいえる。結局、それまで思い込んでいた、事物にたいする価値観がここで一挙に崩れてしまったのだ。
自己の周囲にあるものはこの世界にあって個々別々に表現されており、形態上の相違を示してはいるが、それの持つ本質的な価値に何ら相違のあるものではない。全てはそのままで同等である。――私たちは「そのもの自体」を観察することによって、このような認識に到達した。
3. 世界は現象のままに実在
1) 現象の性質 ―認識者―
では、個人的な価値観を離れて、今度は「そのもの」自体の性質を調べてみよう。「そのもの」とは、今まで観察してきた生物を「物質」として見てみる。それら個々のものが所有していると思われる根本的な性質は一体何だろうか。
まず第一にあげられるのは、「物質は変化する」ということ、そして「物質は生じたり滅したりする」ということである。次に考えられるのは、「物質は現象であって真の実在ではない」、したがって「物質は、本質的で真実の性質をもつものである」ということである。
第一にあげたことから考えてみよう。「そのものは変化する」――全てのものは絶えず変化している。現在その事物が示している姿は一時的で仮のものであって、それらは絶えず今とは違ったものになろうとしている。昨日開きかけたつぼみも、雨に打たれて今日には散ってしまう。春が過ぎゆけば夏が訪れ、その後には虹が輝く。ピカピカの新車もいつしかスクラップ場に運ばれ、子供の頃撮った写真は黄ばんで年月が刻み込まれていく。まことに鴨長明の嘆きを持ち出すまでもなく、自然も物質も一つとして変化を被らないものはない。時々刻々目に見えない変化を重ね、いつしかもとの姿とはまったく異なった、別の様相を呈するようになるのである。
また、その変化に伴い、あらゆるものは生じたり滅したりを繰り返している。ミクロは電子スケールからマクロは星雲界に至るまで、一瞬前には存在していたものが存在しなくなるのである。自分は数十年前はこの世に存在していなかった。しかしあるとき急に存在するようになり、そのうち老いて存在しなくなるだろう。誰にしても、これと同じ運命をたどる。
あらゆる植物や動物だけでなく、山脈や河川、大陸や海洋にしてからがそうだ。私たちの地球もいつまで存在するかわからないし、太陽にしてもいずれ燃え尽きて死滅するだろう。そして、宇宙のどこかでは日々新しい恒星が誕生しているに違いないのだ。
このように、この世にあるものは全て変化の渦の中にある。永遠不変のものなど一つもない。そこで観察者は、「変化」と「生滅」ということを個々のものそれ自体の性質として「とりあえず」認識するのだ。「とりあえず」と書いたのは、これは決定的で絶対的な認識ではないからだ。観察者は決定的な判断をさし控え、世界をあるがままに認識しなければならない。認識を持つのはかまわないが、その認識を絶対のものとして固執してはならないのである。世界のあるがままの姿を、観察者の意識にそのまま移すことが肝要だ。
「変化」と「消滅」という今述べたことからもう一歩進めて、「そのものは現象であって真の実在ではない」ということについて考えてみよう。
真の実在を、「時間 空間によって制限されない事物の真の姿」として定着しようとすると、この世界にはそういった真の姿を呈しているものはないことがわかるだろう。全ての存在物は、一つの限定された空間にあって変化と消滅とを繰り返し、ある限定された時間を生きている。それは一時的な出現しているものであり、絶対的な姿をこの世界に示すことはない。
そもそも、ものの絶対的な姿などあるのだろうか。不変不滅で永遠の、絶対的なものが存在するのだろうか。本質的で真実である本当の実在といえるものが在るのだろうか。自己の周囲を見渡しても、このようなものは何一つとしてないようにみえる。そこで人間は、一つ一つの対象に対し、「そのものは、本質的で真実の性質を持つものではなく、非本質的で不真実な性質を持つものである」という認識に至るわけである。
2) 実在の探究
観察者の意識にはこのように事物が移る。しかしこの意識も、先ほど述べたように絶対的なものではない。その人にとって現在のところこう思われるという一時的なものである。
私たち真の知識を求める人間は、この段階にも留まっていてはならない。この段階に留まることは何を意味するだろうか。私たちには移ろい行く現象しかわからないということである。「現象はもうたくさんだ、私は真実が知りたい、実在の世界があるものなら、その実在をこそ知りたい」、観察者はこう希求するにちがいない。そして実在の探求へと向かうべく決意を固めることだろう。
実在を探求しようとする道には、実に様々なものがある。各人各様、思い思いのやり方で真の実在を知ろうとする。三次元が現象の世界で四次元以上にこそ実在があると思う人は、次元の研究に没頭し何とかして高次の世界を知ろうとする。今自分が生活している場所から離れたところに真実の世界があると考える人は、生活を捨て現世を後にしてチベットの山深く分け入っていくかもしれない。地球上には実在はないと考える人は、宇宙に目を向け地球外文明との接触を求めようとするだろう。また、自己の身体はもちろんのこと感情や知性を通しても真の知識は得られないと思う人は直感の閃きと啓示の光とを求め、日々瞑想に明け暮れるだろう。あるいは、自己の仕事を通して、生活の中から真実の世界に到達しようとする人もいることだろう。
このように、現象に満足できなくなった人間は、真実の世界がどこかにあると信じそれを見出そうと努力する。古今の世界の宗教は、真実の世界へ至る道を数多く示している。中には、懇切丁寧にその方法を具体的に数えてくれるものもある。人は粘り強く自分の目標に迫っていこうとするが大概はいつまでたっても裏の世界を見ることはできない。自分の周囲にあるのは以前と変わらず、ただの現象の世界である。
観察者は現象の認識者となり実在の求道者となった。しかし、真実をという目的に対して、どれほどの進歩があっただろう。人はまだ以前のままで、なかなか光の世界へ出られない。同じ様なところをいったり来たりしている。かすかな手応えを感じて奮起することもあれば、また出発点に立ち戻って意気消沈することもある。
何が悪いのだろう。どこに問題があるのだろう。「現象を幻と見て真実の実在を極める」「現世の塵を離れ西方に浄土を求める」「感覚的愉楽(深い喜びを味わう)を捨て久遠の至福に到らんとする」、こうした探求の道は一体どこに通じるのだろうか。それともどこにも通じないのだろうか。どこにも通じないとすれば、何故歴史はその道を執ように指し示し続ける……
3) 立場のない立場から ―真の認識者―
スランプに陥った求道者は、ふと立ち止まって考える。「これはきっと自分の探求のやり方が悪いのだ。そもそも、探求することに対する根本的な考えかたのどこかに間違いがあるのだ」と。では、どこに誤りがあったのだろうか。
私たちが駆け出しの認識者であった頃、私たちはこう考えた。「全てのものは、変化と生成消滅を繰り返す現象である」と。すなわち、この世にはっきり姿を現している一切のものは生滅し、変化し、相対的、部分的、一時的なものであって、本質的で真実な永遠不変のものではないという考えを得たのである。
さて、この考えは果たして本当に正当なものだったのだろうか。この考えのどこかに誤りがあったのではないだろうか。もう一度はじめから考え直してみよう。
今度は、以前と少し違った角度から考えてみることにしよう。私たちはもう個人的な価値観から事物を見たりはしない。そのような見方は、純粋な観察者になった時点で放棄してしまった。そこまでは良い。その次に、今度は事物そのものの本質を知ろうとしたのであった。しかし私たちはどんな風にそれを知ろうとしたか。どうもこのあたりに問題がありそうだ。
「そのもの自体の性質」を知るのに、私たちはどんな立場に立っていただろうか。もしかすると、はじめからそうとしか見えない立場に立っていたのではないだろうか。「そう」としか見えない立場というのは、前に認識したような「あらゆるものは変化し……」としか見えない立場、ということである。そのような一つの立場に固定されていたため、探求の道を進める上で他のものが見えてこなかったのではないだろうか。それではそれ以外に何か立場があるのだろうか。もしあるとすれば、それはどういった立場なのだろうか。
以前の立場以外に可能な立場があるとすれば、それはこういう立場である。そこでは、同じ事物を見るのにも別の見方が可能となる。すなわち、私たちがはじめから実在の、本質の、永遠の立場に立ってものを見る見方である。自分そのものを実在そのものであるかの如く世界を見てみるのである。
それでは、実在の側に身を置いて世界を観察してみよう。実在は、時間、空間によって制限されないから、永遠であり無限である。相対的、仮象的ではなく、絶対的、本質的である。もし、このような立場から世界を見たとすると、世界は一体どのように映るだろうか。
まず、私たちは全体を一度に見ることができるだろう。あらゆるものが、そしてあらゆる時がいっぺんに見えるのである。そこには「一つのもの」しか見えない。それは全てを内包した、唯一の全体である。この全体をいま「宇宙箱(コズミック・ボックス)」と名づけるとしよう。そうすると、この宇宙箱の中には、およそ今まで存在し、今存在し、そしてこれから存在するであろう全てのものが入っている。バラ星雲もプレアデス星団も銀河系、ブラックホール、ヘリウム原子、水の分子、猫、トラ、ホウセンカ、アイスクリーム、教科書、その他何でも。私たちが観察したあの蝿まで、すっかり収まっている。
また、こうした目に見えるものだけでなく、動物の感覚と表象、人間の思考と感情をはじめとして、私たちの欲望や善意やどんなつまらない些細な思いに至るまで、目に見えないものも全部入っている。
さて、私たちはこの宇宙箱を目の前に置き、それを外から眺めたとしてみよう。中には種々様々なものがあって、相互に関係を保ちながら絶えずゴソゴソ動いている。個々バラバラなものが箱の中に寄り集まり、それらが離合集散を繰り返していて一時も止まることがない。私たちは実在になったのであるから、この箱をいっときだけ見るのではない。様々なドラマを繰り返している宇宙箱の内部を永遠にみるのである。そうすると私たちは、おそらく次のことを発見するだろう。すなわち、「この箱の中の一つひとつのものは、現れては消え、大きくなり小さくなりして絶えず変化しており、何一つとしてじっとしているものはない。しかし、この箱自体は永遠だ。箱の内容物は移りかわっても、箱そのものが変化し消滅してしまうことはない。宇宙箱は永遠である。それは過去も未来もなく、ただひたすら『ありてあるもの』である」ということである。
個々の事象を観察するのではなく、もし全てが統一された単一体を見ることができたとすれば、私たちはたぶん、永遠であり普遍であるものとして世界をとらえ得るだろう。永遠に変化を繰り返すひとつの巨大な全体。個々のものを内包し、それら一つ一つのものを生かしめる統一体としての全体。こうした認識が生ずるとき、以前とは完全に異なった世界観が個人の内部にもたらされる。
個々のものは、一つの全体が細分化されたものであるから、全体から切り離されてあるのではない。厳密な意味で分離独立しているものなど、一つとしてないのである。分離しているように見えるのは、人間が分離したい意義でそのものを見るからである。しかし宇宙箱は一つである。また、個々のものは、一つの永遠が一時的な姿を取って現れたものであるから、永遠から切りはなされてあるのではない。ものが一時的なものに見えるのは、人間が自己の時間概念でもってそのものを見るからである。しかし宇宙箱は永遠である。そしてまた、ものが現象でしかないようにみえるのは、人間がかりそめの意義でもってそのものを見るからである。しかし宇宙箱は実在である。
そうなると、私たちは、見方によってものの性質がまったく異なって見えることに気がつく。通常の人間認識では、ものは一時的、部分的、非本質的な性質を持つ。すなわち現象でしかない。一方、通常の人間認識を超えたところから世界を眺めれば、ものは永遠であり全体であり本質である。ものは、「永遠の今」のうちに存在し、「一即多」のうちに全体であるのだ。
この考えは実感としては把握し難いのかもしれないが、概念的には充分考えられるだろう。ここまで思考が到達すると、先の認識者は従来までの自分の考えを改めざるを得なくなる。つまり、世界を現象と実在の、時間的と永遠の、部分と全体の、非本質と本質の、二つの相に分けるという根本的な誤りに気づくのである。
3) 実在の立場から
二つの相に分けるということは、現象なら現象そのもの、実在なら実在そのものがどこかにあるという考えに基づいている。そこでは現象と実在の範囲が各々定められ、相互に無関係にあたかも純粋な現象、純粋な実在が存在しているかのようである。しかし実際は、そのように二つの相に分かれているのではない。今述べたように、人間の見方によって世界は現象にもなり実在にもなるのである。つまり、世界は現象のままに実在であり、実在のままに現象なのだ。ただ普通は、その認識者のとっている立場によって、どちらかがより強く感じられ、そうした場合に現象だとか実在だとかいう区別がつくのである。
これは、外のあらゆることにあてはまるだろう。時間的対立(時間的と永遠)、空間的対立(有限と無限、部分と全体)もまた同様であって、対立があるかのように人間は認識するのだが、実はそれらは対立しているものではないのである。時間的であると同時に永遠、永遠であると同時に時間的。有限のままに無限、無限のままに有限、部分がすなわち全体、全体がすなわち部分、そして非本質的なものもそのままで本質的、本質的なものもそのままで非本質的、とこうなるのである。
これをさらに押し進めて行くと、ついにはこういう結論に達する。すなわち「現象のままに実在だとするなら、実ははじめから現象も実在もなかったのではないか。どちらでもあるということはどちらでもないということである。つまり全ては何でもないのだ。何かであると区別をすることができないものなのだ」ということである。
多少面倒くさいかもしれないがもう少し説明してみよう。「これは何かである」というと、それは現象化し部分化することである。一方「何かではない全てだ」というと、それは実在と全体の相を得ることになるが、しかし事実はそのどちらでもない。それは「何かである」とはいえないし、「何かであることはない」ともいえないものである。そうなると「何でもない」ということになるのだが、「何でもない」といいきってしまうこともまたできない。
要するに、言葉では規定できないものなのだ。それは、「何でもないということもない」という以上に言葉では表現できない。言葉はもともと区別するために使われるものだからである。ここで、以上述べたことの主張をまとめてみよう。一言でいえば、世界を認識するしかたをもういちど改めて見なおそうということである。何事かを認識する場合、認識者の立場をいずれかに固定してしまったとすると、その立場からの認識しか出てこない。
したがって、まず一度自己の立場を離れ、何も立場のないところに身を置いてから認識しはじめた方がよいだろう。何故その方が良いかというと、一つの立場からは片寄った認識しか出てこないからである。片寄った認識は世界観を歪める。歪められた世界観は、個人に執着と苦しみをもたらす。個人の執着や苦しみは、当人にとっても世界にとってもマイナスである。
マイナスもまた必要ではあるが、私たちはマイナスをマイナスのままにしておくのではなく、そこを乗りこえて進んでゆかなくてはならない。マイナスをより大きなプラスにするためには、正当な認識が不可欠である。片寄りのない固定されない認識こそ、私たちが生存するうえで一番必要なのではないだろうか。いずれにしても、あらゆる二元的な認識を捨てることである。あらゆる区別、差別対立は仮にそう見えるだけにすぎないのだから、それらに固執することはない。あらゆるものには何の差もない。もともとはひとつのものである。有限、無限の対立をこえ、部分全体に区別されず、過去、未来の別もなく、美醜を離れ、増減もなく、そして現象と実在との区別もないものである。そして、私たちの存在そのものすらそうである。
こうした考えをおしすすめ、あらゆる立場を放棄したところから自分を眺めてみると大変おもしろい。私たちは何と無になってしまうではないか。しかし無であると同じにまた有であって、それはニヒリストにとっては呪いかもしれないが、私たちにとっては祝福である。そしてまた、本質的には呪いでも祝福でもない存在である。私たちは、今ここに、ただこうして存在しているだけなのだから。
おわりに――実践者へ――
「おわりに」と書いたが、実はこれからがはじまりである。私たちは以上の考察で、認識する立場次第で世界はどのようにも現れ得ることを知った。しかしそれを知っただけでは私たちの存在はほんの少しも変わらない。ここで得た認識は、単に頭だけの知性や思考レベルでの理解にすぎなかったからである。単なる認識と自分の存在全てににじみわたる理解とは別のものである。
私たちの実人生には多くの凹凸がある。知性でもって「世界は平らなのだ」と考えたところで、やはり世界は歪みだらけであちこちデコボコしているように見える。それは自分の心が未だに歪んでおり、世界に対する真の理解が欠如しているからである。個人の理解が深まれば深まるほど、世界そのものも一層深遠な姿を現わす。
本当に世界が一つであり、無であり透明であるということが、この身をもって完全に理解できたとすれば、真の知恵はすでに私たちの知恵の中に自分の人生を息づかせるべきである。幻想におおわれ執着によって曇らされた人生そのもののうちにこそ、知恵の輝きがあるのである。このことを知った実践者は、「今、ここ」を大切に生きるようになる。
ときは「今」
ところは「ここ」
これが私たちの存在の全てである。
単なる認識でなく、自分の存在をかけた真の理解というものは、一体どうやったら得られるのだろうか?実はこの問いに対する鍵も「今、ここ」にある。しかし、私たちはなかなかそれに気がつかない。ともすると、とんでもなく遠いところに、捜しに出かけたりするのである。自分に最も近く、最も簡単に見い出せるところに、いつでもそれがあるにもかかわらず、何故人は改めて捜し求めたりするのだろうか。
知恵を求めて彷徨い、訪ねあぐねるのはもうよそう。私たちは、「今、ここ」に留まっていよう。そして、ここにこうして存在している「私」だけがこの鍵を使えるのであって、他には誰一人として使用できる人はいないのだと、強く心に刻み込もう。
一番大切なのはここから逃避しないことである。過去や未来へ、異国へ、そして他者へと逃げ隠れてはいけない。真の実践者は、必ず「今、ここ」に存在している。
永遠の「今」
無限の「ここ」
そして、全ての「私」
これが私たちの存在そのものである。
存在に光あれ!
――おしまい
作者について
その他建築設計30件以上、登記申請累計400件以上、建築物定期報告年40件以上。
1956年神奈川県湯河原町生まれ。東海大学工学部建築学科卒業。稲葉建築事務所(1951年創業)管理建築士。
〈資格〉
一級建築士
インテリアプランナー
〈主な公的役職〉
湯河原町消防団分団長(1996-1997年度)
〈主な実績〉
湯河原胃腸病院改修工事設計監理(1999年)
湯河原町消防第二分団詰所設計監理(2000年)
エスポット湯河原店開発申請(2001年)
社会福祉法人城山学園開発申請(2010年)
〈表彰〉
財団法人神奈川県建築安全協会建築設備優良検査者表彰(2004年度)
About me
好きなこと:
すてきなオーラのある人と人を結びつけること
わくわくするアイデアを考えること
ビートルズの let it be
好きな本:
斉藤一人、中谷彰宏、松下幸之助、超古代文明、相似象、言霊
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ビートルズ、井上陽水、松山千春
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今日はいい日だ ― by 斉藤一人 ―