朝、窓を開ける。
風が入ってくる。
それだけのことなのに、その日の気分が少し変わることがある。
空気が軽い日もあれば、どこか重たく感じる日もある。
私たちは、そんな小さな違いをあまり気にしない。
けれど、一日だけでは気づかないその違いが、一年、十年と積み重なったとき、人は何を受け取って生きているのだろう。
建築士になってから、私は数え切れないほど建物を見てきた。
家は人の暮らしを支える。
その考えに間違いはない。
しかし、長く建築と向き合うほど、別のことが気になり始めた。
同じような家でも、建つ場所が違えば、そこに流れる時間がまるで違うのである。
朝日が山から差し込む家。
川の音が聞こえる家。
海風が抜ける家。
暮らす人は同じでも、少しずつ表情が変わっていく。
建物が人を変えるのではない。
その建物を包む土地が、人を育てているのではないか。
そんなことを考えるようになった。
人は、自分の力で人生を切り開いていると思っている。
もっと努力しよう。
もっと学ぼう。
もっと頑張ろう。
その姿勢は大切である。
けれど、努力だけでは説明できない人生を、私は何度も見てきた。
同じように働き、同じように学んでいるのに、自然に道が開けていく人がいる。
反対に、懸命に生きているのに、何かひとつ噛み合わない人もいる。
その違いは、本当に能力だけなのだろうか。
植物は、合わない土では花を咲かせにくい。
だから人は土を変える。
日当たりを変える。
風通しを整える。
すると、それまで元気のなかった苗が、何事もなかったように葉を広げることがある。
その姿を見て、「弱い植物だった」と言う人はいない。
人だけが、自分を責めてしまう。
私は東京で暮らしていた頃、そのことに気づかなかった。
便利だった。
刺激もあった。
仕事にも恵まれていた。
それでも、身体のどこかに力が入り続けていた。
朝起きても疲れが抜けない。
休日になっても、心が休まらない。
その原因を、自分の性格だと思っていた。
ところが湯河原へ戻ると、不思議なくらい呼吸が深くなった。
谷を渡る風があった。
川の流れる音があった。
湿った土の匂いがあった。
何か特別なことが起きたわけではない。
ただ、その場所にいただけだった。
身体が先に安心していた。
頭では説明できなかった。
身体は、頭よりずっと前から場所を知っていたのである。
その経験から、私は違和感を見る目が変わった。
違和感は、消すものではないのかもしれない。
「ここではない。」
身体が静かにそう伝えているだけなのかもしれない。
私たちは、何かうまくいかないことがあると、自分を変えようとする。
考え方を変える。
習慣を変える。
性格まで変えようとする。
もちろん、それも必要なことだろう。
しかし、その前に立っている場所を見つめ直すことも、同じくらい大切なのではないだろうか。
私は湯河原で生まれた。
だから湯河原を語ることが多い。
しかし、湯河原が誰にとっても一番良い場所だと言いたいわけではない。
私にとって、その土地が自然に呼吸のできる場所だったというだけである。
海辺が合う人もいる。
山が合う人もいる。
都会だから力を発揮できる人もいる。
人には、それぞれ氣質がある。
だから、生かされる場所も一つではない。
場所が変わると、出会う人が変わる。
毎日見る景色が変わる。
毎日耳にする言葉が変わる。
その積み重ねが、少しずつ人生を変えていく。
人生を動かしているのは、大きな出来事だけではない。
毎日見上げる空かもしれない。
毎日渡る橋かもしれない。
毎日吸い込む空気かもしれない。
昔の人は、そのことを知っていたのだと思う。
だから山を見た。
川を見た。
風を読んだ。
土地を選び、そこへ家を建て、暮らしを育てた。
人は場所の上に生きているのではない。
場所と共に生きている。
その当たり前のことを、いつの間にか忘れてしまっただけなのかもしれない。
今いる場所が、あなたを苦しめているとは限らない。
けれど、もし理由のわからない違和感を抱え続けているのなら、一度だけ周りの景色を見つめてみてほしい。
答えは、自分の内側ではなく、毎日何気なく眺めている風景の中に、静かに置かれていることもあるのだから。